森喜朗の求める「わきまえ」セクシズムと権威構造

 注! 文中に記述される女性、男性は、特に記述される場合を除いてシスジェンダーヘテロセクシャルであるとします。

 森喜朗が女性に求める「わきまえ」を男性は理解できるかということについて少し考えてみました。結論から言うと、一定水準のジェンダーに関する知識があればできます。それは権威構造的な理解に留まらず、セクシズムとしても理解できます。

 まず、女性が要求される「わきまえ」を男性も理解できるのかという話なので、俺自身の性自認と性指向の提示をしておきます。俺自身はおそらくシスジェンダー(体の性と性自認が一致している)でヘテロセクシャル(異性愛者)の男性です。性表現についてはこの場合(多分)関係ないので割愛します。おそらくという言葉を添えたのは、現在はそうであっても、この先自分の性自認や性指向が変わるかわからないからです。
 それと、この件について言及しようとする人に対して、性自認や性指向のカミングアウトを要求するものではありません。

 森喜朗の発言には性差別と権威主義のふたつが見て取れますが、権威主義に対してのわきまえの要求は、性別に関係なく多くの人が経験しています。家庭内における保護者の要求、内申点を握る教師の要求、試合やコンクールでの出場権、出品内容などの権限を握る顧問やクラブの監督の要求、先輩後輩の上限関係からくる要求、社会人であれば上司や取引先等です。わきまえ方の要求に性差はあるとは思いますが、類似する経験を多くの男性もしていると思います。
 これらは単純に空気を読まされたり媚びを要求されることであると考えます。子供であれば子供らしい振る舞いを、後輩であれば、生徒であれば、部下であればと、自らの尊厳を蔑ろにしてみせろという要求です。「世渡り上手」という言葉には、左記のようなニュアンスを含むこともあり、少なくとも日本にはこうした権威構造に反抗するのではなく、ルールとして受け入れてその中で生きろという暗黙の圧力(あるいはそうした権威構造の美化)があるように思います。具体的には、忍耐や沈黙を美徳とする態度などです。これは事柄の矮小化や透明化にも繋がります。

 加えて、森喜朗は性差別も行っていますので、権威主義だけでは言及しきれません。男性が女性から性差別を受ける機会は、女性に比べて非常に少ないと言えます。入試におけるアファーマティブアクションなどの格差是正措置を逆差別であるとする人もいますが、実際に日本であったのは医学部入試における女性差別、浪人生差別であり、男性がゲタを履かされており、逆差別という言葉が使用される土壌すらできていないのが現状です。

 しかし、男性が異性からの性差別を受けることは、その理解に必須ではありません。もちろん理解の助けになり得ますが、個人的な体験がかえって認知バイアスを生む可能性もあります。自分が受けた性差別の理解には、ジェンダーについて一定水準の知識が必要です。現在もほとんどの人間は、生まれた時からジェンダーバイアス下で養育を受けることになるからです。これから俺の経験を書きますが、類似する経験があったとしても、それだけでは差別に対する理解に繋がるとは言えません。

 俺が女性から受けた性差別で記憶に残っている一番古いものは、小学校でクラブ活動を始めるにあたり、任意のクラブ活動を見学できるという時間に、手芸クラブに行った際のものです。部員は女子のみで、男子は来るなと言われ、顧問の教師にも「男の子なんだから外で運動したら」と言われました。顧問は、俺が入部すると言えば断れない、しかし既にホモソーシャルな社会が形成されているのだから、波風を立てる異物として混入してくるなと、そしてその根拠は俺の性別に求められ、「わきまえ」を要求されました。

 繰り返しますが、異性から受けた性差別の体験が無ければ森喜朗の要求する「わきまえ」を理解できないということはありません。自分の体験を理解するための知識がなければ、受けた性差別が内面化され、男らしさへと傾き、トキシックマスキュラリティにもなり得るからです。
 ですから、男性側が女性が受ける性差別に対して理解を示す目的で自らの経験を話すならば、俺の体験については、教師は性別によって入部の可否をしてはならず、教師は女子部員に対して男性の手芸を否定することが差別であると諭し、また俺に対しては、入部すれば性別を理由に活動に支障を起こさないことを約束すべきだった。そのように理解していると、ここまで書く必要があると思います。

 もちろん、これで俺自身が全ての性差別を理解しているとは考えていません。また差別の理解には常にアップデートが必要です。それは意見がコロコロ変わるという意味ではなく、鎌倉幕府の成立年が1192から1185と記述が変更されたように、研究が進歩するということです。差別の理解には、自身の経験以上に正しい知識が必要だと考えます。

アニメ『セーラームーン』に昔のジャンプ漫画みたいな泥臭い友情を見ました

 アニメ『セーラームーン』終盤のシリアスな展開。四戦士が死にタキシード仮面も死ぬ。彼女たちの死に様はあまりに壮絶なのだが、セーラームーンは、最愛の人へ別れのキスを思いとどまる。

「みんな好きな人とキスもできずに死んじゃったの。だから私だけキスできない」

 そう言って唇にふれず立ち上がる。これまでステロタイプに過ぎるほどだった「14歳の女の子」が見せた泥臭い友情は、例えるなら『魁!男塾』の中でも、桃や富樫ではなく、松尾や田沢のような泥臭さ
 そういう、自分にはできないことをやってのける相手への、心地よい敗北に似た尊敬の感情が、セーラームーンにはあって、大変な名作であったと思います。

『Drak souls』における小ロンド遺跡と四人の公王のモデル推理、及びそれによる大ロンド説。

 ローマカトリックを中心とする西方教会圏は、その昔、現トルコの地域をアジアと呼称していた。しかし、地図の広がりと共にアジアが拡大すると、それまでアジアと呼ばれた地域を「小アジア」、現在の認識に近い地域を「大アジア」と呼称する様になる。同じように、ロシアも元は国名ではなく地名であり、現ウクライナの地域をロシアと呼称し、やがて地図の拡大と共に旧ロシアを「小ロシア」、拡大したロシアを「大ロシア」を呼称するようになる。

 また、小ロシア地域にはかつてキエフ・ルーシという大公国があったが、当時は一子相続ではなく多子相続であったため大公国は分裂し、いくつもの公国が生まれることになる。即ち、複数の公王が存在したということである。

 「小ロンド」という呼称、そしてエリアボスが「四人の公王」であることから、小ロンドはキエフ・ルーシがモデルであり、同時に「大ロンド」の存在がある。という仮説。